どちらかを人に勧めなきゃいけない時には、ラムレーズンとチョコミントはどっちがいいんでしょう。

お久しぶりです。

二三年ぶりです。
たぶん一年ぶりくらいです。

なんとなくここを思い出して、なんとなくちょうど長めの文章を書きたくなった衝動と一致したりなんかして、適当に文章を書いています。
こんな時によく、適当に「筆を走らせる」なんていうけど、ブログやTwitterでは正確には文字は「書く」というよりも「打つ」という方が正しくて、文字を表すのも「筆」によるものではなく「キーボード」によるものだったりするから、「キーボードを鳴らす」なんて表現がぴったりなんじゃないかなって思ったりします。
そんなこんなでいざ長文を書きたいと思っては見たものの特に何か書きたいこともなくて、こんな風に適当にキーボードを鳴らしてると既に数行くらい駄文が生まれていて、気持ちを新たに何か書こうと思ってみても、特に何もなくて早くも悩み始めます。

「悩む」というと僕は最近よく思うことがあって、それは「悩むこと」の無意味さや無生産性です。
毎日生活する中で、誰しも何かしら悩んだりはすると思いますが、僕はその「悩むこと」が少ないように感じます。
というのも、僕は悩んでも答えがでないことは悩まないように意識をしているということがあって、それはというとやはり「悩み」というのは悩んでも解決しないことがほとんどで、そうして悩むことで目の前や目先にある楽しいことを楽しめなくなることや無駄になってしまうことが僕は嫌で、そこからあまり「悩むこと」をしないようにしています。

けれども、こんな風にまるで悩みを持っている人を見下したようにして偉そうにつらつらと文章を書いてみると、そもそもさっき自分で言ったくせに「悩み」ってのは考えても答えが出ないからこそ悩んでるんじゃないかって初歩的な考えを無視してることに気付かされて、僕なんて言うのは内省的なやつがお尻を叩かれて一歩踏み出すように動かされて独善的に行動してるような人間なので自分がただの思考停止した万年躁野郎なんじゃないかというようにも見えてきたりもします。

そう考えると、何かに悩んでいる人というのは、それに頭を悩ませ辛い思いをしていたり精神に負担がかかってはいるけれども、ある意味では悩むことを楽しんでいる(興味を惹かれ、思考を繰り返している)のではないかとも思えるような気もします。

そうなると、さっきも言ったように、悩むよりも行動しろよ!なんて僕は思ったりするんですけど、それはある意味何も考えずに行動することが楽であって、最も楽な道に逃げることで思考を停止させてるようなものなんじゃないかとも思えてきたりもします。
すると、何かに「悩む」こともすごく大事だったんじゃないかって思います。

とまあ適当にだらだら書いてるうちにそれなりの文字数にはなってきて、ブログの書き方ってこんなのでよかったっけ?なんて思いつつも今日はこのへんで終わろうかと思います。

なんだかんだtwitterも再開してることだし、また思いついたらブログも書こうとは思いますので、今度はきちんと書く内容を決めて考えてから書こうと心に決めるんですけど、よく考えたらそんなきちんとしたブログなんて書いたことないですね。

そんなこんなで今晩は明日は何を食べるか悩みに悩みながら寝たいと思います。